「あっ、小日向さんもいらっしゃったんですか」 「ああ、うん。ちょっとだけ」 閉店後のOasis厨房に顔を出すと、そこには琴理ちゃんがいた。姫瑠の応援だろうか。 さて、姫瑠を舞依さんに紹介した翌日。俺は一応紹介した手前、気になったので軽く特訓の様子を見に来ていた。ちなみに対決本番は明後日。 「アチョオオオオオオォォォォ!!」 見ると姫瑠が叫び声と共にボールで何かをかき混ぜている。どんな気合だ。――あの叫び声聞いたらきっと姫瑠のパパさんはまた泣くな、多分。 「おっ、来たねハーレムキング」 と、俺が来たのに気付いたのか、舞依さんが姫瑠から離れて俺のところへ来た。 「普通に名前でお願いします、名前で……で、どうですか」 「私は、君が姫瑠ちゃんに傾くに一票」 「誰がそんな予想を聞いてますか! 明らかにケーキの特訓の話でしょう!」 俺が一通りツッコミを入れ終わると、舞依さんは「ふーむ」と言った感じになる。 「とりあえず「スポンジを焼きましょう」って言ったら皿洗い用のスポンジをフライパンで焼こうとした時はどうしようかと思ったよ、流石に」 「…………」 「昨日は「ケーキ作りとは何ぞや?」の説明と基本的な調理器具の説明、材料の説明で終了。――放っておいたら卵割るのに包丁使いそうだったからねえ」 「……あー、その、すいません。余計な手間かけさせちゃって」 「ま、いいっていいって。それにね、私の現時点での総合評価は「惜しい」だから」 「……へ?」 惜しい? 圧倒的に駄目、とかじゃないのか? 「あの子、スタート地点が一般よりも遙に後方なだけで、才能そのものが無いわけじゃないよ。吸収率は悪くないし、会得したものを忘れたりしないし、失敗してもへこたれない。何よりやる気はある。もしも対決が明後日じゃなくて一ヵ月後だったとして、その間私がみっちり教えたとしたら、春姫ちゃんにも十分勝てる可能性がある」 「へえ……」 驚いた。普通に下手なだけじゃないのか。 「いやいや、これが君の為に生まれるパワーか。お姉さん泣けてきますよ」 と、ニヤニヤしながら舞依さんは言ってくる。 「放っておいて下さい……」 俺としてはそう答えるしかない――のだが、 「でもね雄真くん。あんた、わかってる? あの子が頑張ってるのは、あんたの為なんだよ?」 「……えっ?」 不意をつかれる。気付けば舞依さんは真面目な顔になっていた。 「あの子、純粋にあんたのことが好きだから、あれだけパワーが出るんだよ。――君が春姫ちゃんと付き合ってるのは知ってるから、結論を動かせとは言わないけど、ただそれだけを理由に簡単に跳ね除けちゃうのは、あそこまでいくとちょっと可哀相かな、って私は思っちゃったかな」 「――舞依さん」 「ああ、ごめんね。深くも知らないのに偉そうに語っちゃって。――私の言葉は、聞き流していいよ」 「いえ……」 似たようなことを、一昨日考えていた。姫瑠に俺がしてやれること。 「大丈夫です。俺もその辺り、考えようって決めてますから」 「そう。――よっ、このハーレムキング!」 「考えろって言ったの舞依さんじゃないですか!」 あはははっ、と舞依さんが笑う。――実際ハーレムキングにだけはならないように気をつけねば。 「ホアタアアアァァァァァ!!」 「わあ、姫瑠ちゃん、凄いですね」 と、不意に聞こえてくる姫瑠のカンフーっぽい叫びと琴理ちゃんの歓声と拍手。ふっとそちらを見ると―― 「…………」 「…………」 俺と舞依さんは一瞬、言葉を失っていた。――カンフーの叫びと共に、姫瑠は何故か踊っていたのだ。 「――舞依さんの教えるケーキ作りって、随分情熱的なんですね」 「いや、本気であれを私が教えてると思われるとちょっと辛いんだけど。――ちょっとちょっと、何してんのそこ!」 「あ、師匠。――師匠がまずは薄力粉を振るえって仰ったから」 よく見ると姫瑠の手には「薄力粉」とかかれたラベルの貼ってあるビンが。 「あのねえ……そうやって振るうんじゃないの。ほら、そこに網みたいのがあるでしょ?」 「網……そうか、ヤスキ節ですね!」 「踊りから離れんかいおのれは」 正しい薄力粉の振るい方を姫瑠に教えると、再び舞依さんは俺の横に戻ってくる。 「――あれで「惜しい」んですか」 一応ツッコミを入れてみた。 「言ったでしょ、スタート地点が遙に後方だって。考えられないミスはしちゃうの。教えたからもうやらないでしょうし」 「そんなもんですか……」 今一歩ピンとこないです、と言おうとすると、 「キエエエェェェェェェ!!」 「わあ、姫瑠ちゃん、凄いですね」 と、再び聞こえてくる姫瑠の叫びと琴理ちゃんの歓声と拍手。急いでそちらを見ると―― 「って、えええええええ!?」「って、えええええええ!?」 俺と舞依さんは同時にほぼ同様の叫びを挙げていた。姫瑠がかき混ぜていたと思われるボールが泡だっているのだが、その泡が既に天井に達していた。――どんな泡立てだ。 「ちょっとちょっと、あんた一体どれだけ卵使ったのよ〜!?」 「えっ……? あの、師匠の言う通り、五個ですけど」 「何をしたら五個で天井まで泡立てられるわけ……?」 舞依さんは呆れつつも泡立てのレクチャーを一通りして、再び俺の横に戻ってきた。 「――明後日の対決、舞依さん的にどう思います?」 「――俗に言う、エム・ユー・アール・アイ」 「M・U・R・I」――無理。 「いくら惜しいっていっても、説明したようにあの子の成長には時間がかかるから。まともに食べられるものが作れるかどうかも怪しいね、これじゃ」 「ですよ、ね……」 変な心配とかはしなくても大丈夫そうだな……等と思っていると。 「トリャアアアアアァァァァァ!!」 「わあ、姫瑠ちゃん、凄いですね」 と、再び聞こえてくる姫瑠の叫びと琴理ちゃんの歓声と拍手。 「って、またか、またなのか!?」 「今度は何したわけ〜!?」 と、今度は俺も一緒に近付いてみると―― 「あ、師匠。――今オーブンのスイッチを入れたんです」 ズルッ。 「オーブンのスイッチ位普通に入れなさーい!!」 ……というか、現時点までに俺も舞依さんも触れてないが、何気に琴理ちゃんの感覚もどうなんだろうとか俺は思うんですけど、どうなんでしょう。
彼と彼女の理想郷 SCENE
10 「キレイな愛じゃなくても」
さて日付はあっと言う間に過ぎて、本日は春姫対姫瑠の直接対決第三回戦、ケーキ作り対決の本番の日。場所は無論Oasis。俺は一応審査員の一人らしく、今は大人しく審査員席でスタートを待っている状態。 ちなみに特設会場となっているOasisには、本日は観客席なるものが用意されております。――何だか段々規模が大きくなってませんかこの対決。 「雄真くん」 と、俺に声をかけてきたのは姫瑠。 「どうした? もうあっちに行ってないとまずいだろ?」 「うん、でも確認しにきたの」 「確認?」 「忘れてないよね? 約束」 姫瑠との約束。――良くも悪くも覚えている。というよりもそんなに日にちが経過したわけでもないし。 「あー、覚えてるよ、安心しろ」 「よーし、絶対に勝ってみせるからね、私のスペシャルケーキで。名付けて「咲き誇るケーキの奇跡」!」 「――何処から来たんだ、そのタイトル」 「駄目かな?」 「駄目じゃないんだけど……何となくお前っぽくないっていうか」 どちらかと言えば柊がよく似合いそうなタイトルだ。――何でって言われると困るけど。 「とにかく、私のケーキ、楽しみにしててね!」 「わかったわかった、とにかく戻れって」 俺が促すと姫瑠は小走りで出場者の場所に戻っていった。――とほぼ同時に会場にマイクを通した声が響き渡る。 「それでは会場の皆さん、お待たせ致しました、只今より神坂春姫vs真沢姫瑠、第三回戦、ケーキ作り対決を開始したいと思います!」 わああああ、と沸き立つOasis。 「はい、司会はわたし、小日向すももが担当させていただきます」 我が妹はいつのまにか司会業務に目覚めていました。 「それから、調理場の現地リポートはOasisのウェイトレスで御馴染みの柊杏璃さん」 見るとマイクを持った柊が春姫と姫瑠の傍で既にスタンバイしている。――で、 「解説を担当する、上条信哉だ」 「またお前かよ!? 何でケーキ対決の解説がお前なんだよ!?」 誰ですか本当に解説者選んでる人。ウケ狙いとしか思えない。 「ケーキと言えば甘い、甘いといえば生温くなってしまった己の精神、それに必要なのは修行、すなわち俺だ」 「どんな連想ゲームだよ!? ケーキ置いてけぼりだよどう考えても!!」 まあでもこれで「実は俺のもう一つの趣味はケーキ作りなのだ」とか言い出しても怖いけど。 「――はい、両者とも、準備は宜しいですか? 三、二、一……スタート!」 プォ〜ン、という謎のサイレンと共についに本番が開始。 「こちらから見る限りでは両者かなり真剣な面持ちで作業を開始していますね。――現場の柊さん?」 「はーい、それでは両者の様子をレポートしていきたいと思います。――まずは本命、我等が神坂春姫!」 柊がマイク片手に春姫の方へ近付いていく。 「これは……苺の量が多いんでしょうか? どうやら一般的なショートケーキよりも苺をフィーチャーしたケーキを作成している模様です。本人の苺好きもありますし、これは期待していいんじゃないでしょうか!」 やはりそれで来るのか春姫。予測通り、それはつまり確実な高得点コースだ。 「続きましてこちら、真沢姫瑠! 事前入手した情報によりますと、なんと彼女はこの対決の為に人気急上昇中のOasisの美人パティシエール、沖永舞依さんに弟子入りし、マンツーマンで特訓を受けたとのことです!」 柊のそのコメントに、会場が「おおおー」と沸く。 「すーっ、はーっ」 で、一方の姫瑠と言えば、何故かボールを前に深呼吸。そして…… 「アーダダダダダダダダダダダダダダダダァァァァ!!」 叫び声と共に一気にかき混ぜだした。会場が驚きに包まれる。 「おおっと、これは凄いぞ真沢姫瑠! 謎の叫びと共に信じられないスピードでボールをかき混ぜ始めました! これが特訓の成果なのか〜?」 いや、まともな特訓が開始する前から叫ぶ癖はあったけどな。――などと思っていると、 「…………」 俺の横の審査員席で目の前のテーブルに突っ伏す人が。――人気急上昇中のOasis美人パティシエールの沖永舞依さんだ。 「……どうしたんですか?」 「だって……今の説明だと、まるで私があの叫びながらの混ぜ方を教えたみたいじゃない」 「と言うよりも、日々舞依さんがああやってケーキを作っているのか、という誤解が生まれますね」 「言わないで……立ち直れなくなるから」 多分舞依さんの人気はこの対決後も上昇していくだろう。――色々な意味で。
「さあ、間もなく試食タイムが開始となります」 司会のすももの声がマイクを通じて会場に響く。――制限時間は終わりを向かえ、二人のケーキは完成し、審査員の試食、評価へとプログラムは移ろうとしていた。で、 「燃え尽きた……燃え尽きたのよ私は……」 ケーキ作りを終え、一番燃え尽きたのは春姫でも姫瑠でもなく、俺の横にいる舞依さんだったりもする。――まあ、あの後も姫瑠はとても個性的な作り方をしていたわけで、それを伝授したのがここ数日マンツーマンで姫瑠についていた舞依さんではないか、という空気が微妙に会場に流れたわけで。 「大丈夫です。俺、舞依さんのケーキ食べにいきますから」 「いやそれ何のフォローにもなってないから」 すいません舞依さん、だってフォローの仕様がないし。――と、そうこうしている間にも着々と試食の準備は進められていた。 「解説の上条信哉さん、今までの経過からしてどう見ていますか?」 「うむ、両者共に見事な間合いだった。隙も無く、あれでは踏み込むのは難しい」 誰かあの解説者なんとかして下さい。何の解説ですか一体。ケーキ作り間合い関係ねえし。 「まず先行は真沢姫瑠さんのケーキです! それでは審査員の皆さん、一皿目の蓋を開けて召し上がってみて下さい!」 姫瑠のが先か。――俺は石炭化が怖かったので恐る恐る蓋を取ってみた。すると…… 「……あれ?」 出てきたのは、チョコレートケーキだった。少々いびつで手作り感丸出しではあるが、見た目からしてケーキだと判断出来る。煙を出しているわけでも可笑しな匂いを発しているわけでもなかった。 「舞依さん、これ……?」 「大したもんでしょ、あの雄真くんがこの前見たあの状態からここまでこじつけたのよ? 私のお陰――って言いたいところだけど、本人の吸収率・会得率が私の予想よりも高かったかな」 舞依さんは嘘を言っているようには見えない。――ちょっと予想外だ。驚いた。 「……あっ、そうだ、食べるのか」 俺は慌ててフォークを手に取り、一口大にしたケーキを口に運ぶ。すると…… 「普通に……美味いかも」 特に可笑しな味とかはしない。チョコレートケーキの味だ。というより、 「なんていうか……スポンジが凄い滑らかというか、あまり食べたことのない感じ……?」 「おっ、案外やるねえ。気付いたか」 俺の呟きを、舞依さんが拾ってくれる。 「いい? あの子の可笑しな作り方、唯一ダイレクトにこのケーキに響いているところがある。何処だかわかる?」 「――いえ、全然わからないです」 「土台のスポンジ作りの時のあのボールでのかき混ぜの時」 ボールでのかき混ぜの時? あの時の姫瑠はただとにかく叫びながら物凄いスピードで―― 「って――もしかして、あのかき混ぜの速度が?」 「ご名答。――素人は機械でやった方が確実でいいんだけど、あの子のあのかき混ぜの速度はプロ並。それが反映されているのがスポンジってわけ」 何もかも可笑しなアクションだと思っていた姫瑠のケーキ作りの模様は、意外な所でケーキのクオリティに関係していた。――他の審査員の様子を見ても「見た目よりは全然美味い」「予想よりもいける」などの好評価を得ていた。 その模様は数時間前の俺からしたら完全に予想外。もしかして、この勝負……!? 「それでは続きまして、神坂春姫さんのケーキの登場です!」
「ふぅ……ケーキ嫌いじゃないけど、一度にあんなに食うと結構腹に来るな」 ケーキ対決終了後、俺は腹ごなしの為にOasisの周りを一人、散歩していた。 結局のところ、ケーキ対決を制したのは春姫だった。意外にも好評だった姫瑠のケーキだが、あくまで審査員の評価は「見た目より〜」「予想より〜」で、総合的なことを言えば並か、それよりちょっと下。一方の春姫の苺をふんだんに使ったケーキは見た目もバッチリ、味も予想通り、いや予想よりも上のかなりの好評価。結果を見れば圧倒的多数で春姫の勝利だったのだ。 今春姫はレシピに関しての取材を学園の新聞部から受けていた。号外で発表されるらしい。――また人気が上がっちまうな、春姫の。 「ま、自分の彼女が人気なのは悪いことじゃないけど」 一人でに呟く。――そろそろ取材も終わる頃だろうか。様子を見に行くか、と思っていると。 「小日向さん」 俺を呼び止める声。――振り向くと、そこには。 「――琴理ちゃん?」 「申し訳ございません、呼び止めてしまって」 相変わらずの繊細な声、動作でペコリ、と頭を下げてくる。 「いや、いちいちそんなことで頭下げないで。――俺に何か用?」 「はい。――少し、お時間頂けないでしょうか? 小日向さんに……その、お話がありまして」 琴理ちゃんと話、か。――そういえば姫瑠と通して間接的に係わり合いがあるだけで、特別琴理ちゃんと喋ったりしたことは今までにはなかった。 「うん、わかった、いいよ」 「すみません、ありがとうございます」 「えーっと……ああ、丁度いいからあのベンチにでも座ろうか」 俺が促した先には程よく誰も座っていないベンチが。更にはその横には飲み物の自販機。 「奢るよ。何がいい?」 「あっ、いえ、そんな、ご迷惑をかけてしまうわけには」 「別に気にしなくていいって、ジュース一本位」 「でも……」 本当に奢ってもらっていいんだろうか、という表情をする琴理ちゃん。予想はしていたが、謙虚な娘さんだと思った。――だからこそ、親しくなる為に強引に奢りたかったのだ。 「あの……それじゃ、ホットココアをお願いします」 更に一、二秒悩んだ後、琴理ちゃんは俺の奢りを承諾してくれた。ホットココアと、俺の分のコーヒーを買い、ベンチに座り、ホットココアを琴理ちゃんに手渡す。 「ありがとうございます」 穏やかな笑顔で、琴理ちゃんは俺からホットココアの缶を受け取る。二人で缶の蓋を開け、それぞれ一口、飲み物を口に運んだ。 「――あんなに楽しそうな姫瑠ちゃんを見たのは、初めてでした」 先にそう切り出したのは、琴理ちゃんだった。 「ケーキ作りをしている時……いえ、それだけじゃなく、小日向さんと、小日向さんのお友達の皆様と一緒にいる時の姫瑠ちゃんの笑顔は、輝いているんです。少なくとも、あれほど楽しそうにしている姫瑠ちゃんを、わたしは今まで見たことありませんでした」 そう俺に告げる琴理ちゃんの穏やかな笑顔は、とても嬉しそうだった。 「そんなに?」 「ええ。本当に驚きました」 アメリカでの暮らしは姫瑠から聞いていたとはいえ、あの程度の笑顔もなかったってことか。――ちょっと、チクリと来るものがあった。 「わたしのことは、どの程度伺っていますか?」 「琴理ちゃんのこと? どの程度、って言っても……姫瑠の父親の会社の人の娘さんで、年に数回しか会えない友達だって。アメリカでの唯一の友達だとも聞いた」 「はい。――もっとももう父様は「MASAWA
MAGIC」の人間ではありませんが」 「? 会社、辞めちゃったの?」 「……亡くなったんです。事故で」 「っ」 しまった、迂闊だった。 「ごめん……その」 「いいえ、御気になさらないで下さい。年月は経過していますし、わたしも大丈夫ですから」 「……うん」 そう俺に告げる琴理ちゃんに陰りは見られない。ならば表面通り受け取った方が良さそうだ。 「父が亡くなったのは、わたしが十歳の時でした。母もおらず、他に身寄りの無かったわたしを、何かと手を回して世話をして下さったのが姫瑠ちゃんのお父様、つまり真沢のおじ様なんです」 「へえ……」 事故で亡くなってしまった社員の娘さんが身寄りがないのを知って、手を尽くしてくれたってわけか。客観的に見ればもう何の関係もないだろうに…… 「いい人だね、真沢さん」 これも見た目とのギャップになるけれど。 「はい。――その時、一緒に紹介されたのが姫瑠ちゃんだったんです。引っ込み思案で友達がいなかったわたしの、初めての友達でした。父様を亡くし、途方に暮れて、どん底にいたわたしを、あのお二人は助けてくれたんです」 「そっか……琴理ちゃんは、二人のこと」 「はい。感謝、尊敬――簡単な言葉では、言い表せません」 初めて真沢さんと琴理ちゃんが家に来て、琴理ちゃんが真沢さんと姫瑠の喧嘩を宥めたことを思い出した。琴理ちゃんは両方の立場になって、両者の為に意見を述べていた。今思えば、本当に二人のことを大切に想っているからだったんだろう。 「姫瑠ちゃんから、小日向さんと姫瑠ちゃんの経緯は伺っています。――小日向さんには素敵な彼女となる人がいて、姫瑠ちゃんに可能性が低いことは、わたしにもわかります」 「うん……」 何となく、琴理ちゃんが何が言いたいか、わかってきた。 「姫瑠ちゃんを選んで下さい、とは言いません。そんな単純な理由で姫瑠ちゃんは選ばれても嬉しくないでしょうし、幸せになれるとも思えません。でも――」 「わかってる。琴理ちゃんの言う通り、俺には彼女がいて、ちゃんとそういう風に見てる子もその子一人だけだけど――それでも俺も、簡単に姫瑠を傷付けたいとは思ってない。我侭だって周りから思われても仕方が無いけど、それでも姫瑠がこっちに来て、幸せを感じてくれてるなら、それを今だけで終わりにしたいとは思わないんだ」 「小日向さん……」 ここにも一人居てくれた。姫瑠の、幸せを願っている人が。ならば―― 「琴理ちゃん。出来れば、力を貸して欲しい」 「わたしが……ですか?」 「うん。結論次第では、真沢さんと話し合ったりしなきゃいけないかもしれないし、それ以前に姫瑠本人とも話し合いが必要だと思う。琴理ちゃんは二人のことをよく知っているし、大切に想っているから、正しい意見が持てると思う。俺の考えが及ばない時や、俺一人では手が回し切れない時、琴理ちゃんの力があればきっと解決出来ると思うんだ」 ならば、お互い一人で考え込む必要はない。一人で想ってあげるより、二人で、それ以上で想ってあげる方がより力になるに違いないのだ。 「一緒に、頑張ってもらえないかな、琴理ちゃん」 俺が、そう頼むと―― 「はい。わたしなんかで、よければ」 琴理ちゃんは、やっぱり穏やかな笑顔で、そう承諾してくれた。――心強い味方が、出来た瞬間だった。
「――あれ?」 琴理ちゃんと話し終え、そろそろ春姫の取材も終わるだろうと思ってOasisに戻ってみると。 「あっ、雄真くん」 そこにいたのは、姫瑠が一人だけだった。片付け終わった会場(つまりいつものOasisだ)で一人だけ。 「何してんだ、こんなところで。もう帰ったかと思ってた」 「うん。ちょっと、勝負の余韻に浸ってた」 「そっか」 まあ、今までの話を統合すれば、ケーキ作りなどというジャンルにあれだけ力を入れたのも初めてだったんだろう。気持ちはわかるかも。 「雄真くんは、春姫を探しに?」 「あーうん、そろそろ終わる頃だと思って。――あ、そうそう」 そのまま姫瑠には何も触れないで行ってしまうところだった。ちゃんと言っておかなければ。 「一応言っておこうと思ってたんだ。――姫瑠のケーキ、何だかんだで結構美味かったぞ」 美味しいものを作ってくれた人に何も言わないのは、大変失礼である。――と、俺は昔からかーさんやすももに随分躾けられてきた。だからちゃんと姫瑠にも言っておこうと思っていたのだ。 「ホント?」 「ああ。石炭コロッケのこともあったし、ちょっと予想外だった。あの短期間であそこまで作れるようになるなら、この先頑張ればもっと美味いの作れるよ。――まあ、春姫のケーキにはまだ遠かったけど」 「一言多いなあ、もう。でも……えへへ、ありがと」 俺のお褒めの言葉が嬉しかったのか、姫瑠はあからさまな笑顔になる。 「んじゃ、また後で、家でな。遅くならないうちに帰れよ」 と告げて、Oasisを後にしようとした。――が、 「あっ、待って雄真くん!」 の一言で俺の足はストップ。 「どうした?」 「ほら――その、例の、約束」 「……あー」 ケーキ対決で姫瑠が勝ったら俺が姫瑠にキス、姫瑠が負けたら俺が姫瑠に何でも一つ命令のあれか。 「別にいいよ、チャラで。気にすんな」 そういえばすっかり忘れていた。――俺個人としては最初から姫瑠が勝つとは思ってなかったし、本気では考えてなかったせいかもしれない。 「ちょっ――駄目だよ、そんなの!」 が、姫瑠の勢いは俺の考えを通り越して真剣そのもの。 「約束は約束だもん! 私、本気だったんだから!」 「でもなあ」 「絶対駄目! 適当な感じで終わらせたくない。雄真くんとの……約束だもん」 何もそこまでムキにならなくても……と思ったが、口には出さないでおく。 「じゃあさ、もしも……もしもだぞ? 俺が明日にでもアメリカに帰れ、って言ったら帰るのか?」 訪れる一瞬の沈黙。そして―― 「――命令で、雄真くんがそれを望むなら」 と、返された。――おいおい、何処まで真っ直ぐなんだよお前。……俺との約束だから、か。 「わかった。――じゃあ、命令な」 「……うん」 俺は、諦めて今その場で思いついた命令をすることにする。 「ちょっと、手貸して。右左どっちでもいい」 「手……?」 「ああ。俺に今、手を貸して。それが俺の命令」 姫瑠は自分の手をチラッと見て、 「……まさか、指を詰めろとか?」 「お前は何処のヤクザの世界の女だよ!?」 よくわからない勘違いをしていた。――どんなキャラだよ俺。 「そんなんじゃねえよ。――ほら、どっちでもいいから」 「あ……うん」 恐る恐る右手を俺の前に差し出す姫瑠。――俺は、そんな姫瑠の右手を持つと…… 「え?――あっ」 驚く姫瑠。無理もない。――俺は、持ち上げた姫瑠の右手の甲に、軽くキスをした。 「はい、お終い」 「雄真、くん……?」 唖然としている姫瑠の右手を、俺はゆっくりと離す。 「今日のケーキのお礼と、お前の真っ直ぐさを見縊っていたことに関してのお詫びの印、かな」 俺自身、どうしてこんなことをしようと思ったのかは正直、わからない。気が付けばなんとなく、してしまっていた。 流石に口は勿論、頬などにもするわけにはいかないけど――でも、親愛なる間柄ならば、この程度はいいだろうと思った。その位のことは、今の姫瑠にしてやりたかったのだ。 「…………」 生まれる沈黙。――姫瑠は俺がキスした右手を左手で持ち、まるで宝物を抱え込むようにゆっくりと自分の胸へと抱き寄せる。 「……嬉しい」 そして、小さな声でそう呟く。その頬が、少し赤く染まっているのは――日が傾きかけていて、夕焼けのせいだ、ということにしておきたい。 「――そこまで真面目なリアクション取られても、なんだかなあ、って感じなんだけど」 もっといつもみたいに飛び跳ねて喜ぶなり、続きを要求してくるなりで、俺がツッコミを入れるパターンだと思っていたので拍子抜けだ。――姫瑠はゆっくりと首を横に振る。 「だって、嬉しかったから」 そう俺に告げる姫瑠のその頬が、少し赤く染まってるのは、夕焼けのせいなんだってば、多分。 「ありがとう、雄真くん」 姫瑠は俺にそう笑いかける。とても穏やかで、澄み切った笑顔。 「――っ」 ドクン。――不意にその笑顔の綺麗さに、俺の心臓が跳ねた。――待て俺。ドキドキしちゃ駄目だろ。違うんだって。 「ケーキ作り、負けちゃったけど――今日のこと、素敵な思い出として、忘れないよ、私」 「大げさな。――でも……思い出、か」 思い出だけでは終わらせない。姫瑠の幸せを願ってる人達がいる。そんな人達の為に、姫瑠の為に、俺は――
「ちょっと、手貸して。右左どっちでもいい」 「手……?」 そこに出くわしたのは、ほんの些細な偶然だった。 「ああ。俺に今、手を貸して。それが俺の命令」 それは、隙間から見える風景、声。 「そんなんじゃねえよ。――ほら、どっちでもいいから」 「あ……うん」 春姫は、決して覗き見をしようとしていたわけではなかった。ただ、自分がいないところで、二人が実際どんな会話をしているのかが気になった。ただ、それだけだった。 でも――それが、間違いだった。 「え?――あっ」 その瞬間――雄真は姫瑠の右手の甲に、キスをした。 「――っ!?」 ドクン。――心臓に、飛び跳ねるほどの衝撃が走る。 「はい、お終い」 「雄真、くん……?」 唖然としている姫瑠。でもそれ以上に、春姫は唖然……いや、茫然自失だった。 (どう……して……?) 言葉にならない。口が上手く回らない。体が硬直して動かない。 今ここで飛び出して行って、いつものように怒ってしまえばそれで終わりだ。そんなことはわかっている。 「……嬉しい」 「――そこまで真面目なリアクション取られても、なんだかなあ、って感じなんだけど」 わかっているのに――憚られた。その二人の空気に、入れないものを感じてしまったのだ。 (どうして……そんなことまで、姫瑠さんに、してあげるの……?) 視線の先の、愛すべき人が、やけに遠く感じられた。 わかっている。雄真は、自分を簡単に捨てたり裏切ったりするような男ではない。 わかっている。雄真は、誰にでも優しい。自分に彼女がいるから、自分に好意を寄せてくる人間を、それだけを理由に冷たく跳ね除けたりは出来ない。 わかっている。雄真は、そこまで深い意味合いで今、彼女の手にキスをしたわけではない。 わかっている。わかっている。わかっている。全てわかっているはず、なのに…… (っ……!!) ドクン、ドクン、ドクン。――激しい心臓の鼓動が止まらない。苦しくなって、立っていられなくなりそうになる。――頭では理解していても、本能が納得してくれないのだ。 「だって、嬉しかったから。――ありがとう、雄真くん」 その、穏やかな姫瑠の笑顔に、感じるもの。――嫉妬心は前からあった。でも、今感じているのはそれだけではない。 「――っ」 そしてその、穏やかな雄真の表情に、感じるもの。――自分の愛する人を、愛しい人を、奪われてしまうかもしれない――恐怖感だった。春姫は初めて姫瑠の存在に、恐怖を感じた。 (雄真くん……私……私っ……) 愛しい人は、雄真は、自分が苦しんでいることには、気付いてはくれない。 (嫌だ……嫌だよ……だって、こんなに私、雄真くんのこと、好きなんだよ……?) 繋ぎ止めておかなければならない。――誰よりも、愛しい人だから。 (雄真くんが、私の傍からいなくなるなんて……考え、られないよ……!) 繋ぎ止めておかなければならない。――今雄真が自分から離れてしまえば、きっと壊れてしまうから。 (駄目なの……雄真くんじゃないと、駄目なの……! 私は、世界で一番、雄真くんのこと……!) 繋ぎ止めておかなければならない。――たとえそれが、綺麗な愛じゃなくなってしまったとしても。
<次回予告>
「……私に、寄り添われたり、抱きつかれたりするのは……もう、迷惑なの?」
ケーキ作り対決翌日。 様子のおかしい春姫を、雄真は疑問に思うのだが……
「姫瑠、俺は今この瞬間ほどお前が愛しいと感じたことはない!」 「……え?」
春姫の様子が気になりつつも、普段の生活を送る雄真。 果たして、二人の行き着く先は「幸せ」なのか、それとも。
「――実際さあ、雄真くんって、私のことどう思ってるの?」 「へ?」 「純粋に、男と女としてだよ?」
一方で、雄真と姫瑠の行き着く先に、待ち受けているものとは――
次回、「彼と彼女の理想郷」 SCENE
11 「破綻へのカウントダウン」
「頑張って下さいね、雄真さん、神坂さん。私はいつでも、あなた達の味方ですよ?」
お楽しみに。 |