「おす、雄真。珍しいな、日曜日にわざわざ俺を呼び出しなんて」
「おす。――んー、まあちょっとな」
 日曜日、午前中。――俺はハチを、俺の家の前に呼び出していた。
「まあいいや、俺もお前にちょっと話があったんだ」
「俺にか? 先に話、していいぞ。何だ?」
「おう。……その、さ。史織ちゃん、お前の所に行ったって、本当か?」
「ああ、それは本当。だから、お前とのことも聞いてる。――何だ、史織が直接お前に言ったのか? 俺の所に行って話をした、って」
「おう。……それで、さ」
 モジモジするハチ。相変わらずモジモジしてると気味が悪い。
「その、色々史織ちゃんから聞いたと思うし、俺も色々あったけど……俺、やっぱり雫ちゃんのことが好きだ。雫ちゃんが一番好きだってことに、気付いたんだ」
「それで?」
「お前には史織ちゃんが直接行ったりして、色々迷惑かけたっていうか、色々誤解を招いたりしたと思うんだ。だから、その謝罪と、報告だ。これからは俺、雫ちゃんのことを、大切にするよ」
「そっか。……以上か?」
「おう。……で、お前の用事は?」
「俺のは直ぐに終わる。――ちょっとそこから一歩下がってくれるか?」
「? こうか?」
 ハチ、俺の方を向いたまま後ろ歩きで一歩がる。つまりその分の間合いが俺とハチの間に出来た。――丁度いい、間合いだった。
「ああ。そのまま動くなよ」
「? お前、何を言って――」
「行くぞ」
 バキッ。――戸惑うハチの左頬を、俺の右フックが捉えていた。



ハチと小日向雄真魔術師団
SCENE 81  「とてもとても、大好きでした」




 ゴロゴロゴロ――ドシン!
「これが俺の用事だ。お前を一発殴りたかった」
 二回転して壁にぶつかってハチは止まった。痛みよりも何が起きたかわからない、といった表情でハチは固まっていた。
「な、な、な、何しやがる雄真!! いきなり何だ!?」
 やがて現実味を帯びて来たか、ハチは起き上がり俺に詰め寄ってきた。――俺も変に怒りをあらわにしたり動じたりはしない。ただ冷静に、ハチを見ていた。
「雫ちゃんが好き? 雫ちゃんを大切にする? お前、何言ってんの?」
「何って、だから――」
「今のお前を、雫ちゃんが受け入れるとでも思ってるのかよ」
「……? 雄真、それどういう――」
「お前さ……雫ちゃんに、史織とキスしてる所、見られたろ」
「!? お、お前、どうしてそれを」
「昨日、雫ちゃんに会いたいってお願いされて、会って相談されたんだよ。洗い浚い全部話聞いた」
 ハチ、驚愕の表情。さっきとは違う意味で痛みを忘れたようだ。
「それに、雫ちゃんはお前達がレストランで楽しく話をしていた所から見てた」
「っ!?」
「雫ちゃん、俺の前で泣いた。ちゃんと説明して欲しかったって。一生懸命になった自分が馬鹿みたいだって。好きになった自分が馬鹿みたいだって。俺の前で、嘆いた」
「雫ちゃん……」
「それだけじゃない。――雫ちゃん、俺に抱いてくれって、お願いしてきた」
「な……え……!?」
「最後のけじめが欲しいって。お前に受けた傷、一生忘れないように刻みつけたいから、抱いてくれって俺に泣きながら頼んできた」
「そ……それで、お前……どうしたんだ……!?」
「抱いた」
「!?!?!?」
 俺の躊躇いのない返事に一瞬、時間が止まる。
「だって抱くだろ。雫ちゃんだぜ? 可愛いし、スタイルだって悪くない。――いやー、正直凄い良かったぜ。正に、って時の雫ちゃんの表情、たまらなかったなー」
「お前……お前……お前えええええぇぇ!!」
 ハチが拳を握りしめ、俺に殴りかかってきた。
「…………」
 この展開を予測していた俺は――最初から、その場を動かず、冷静な表情のまま、ハチを見ていた。そして――
「……っ……お……くそおおおおっ!!」
「…………」
 ――そして、ハチの拳は、俺の目前で、ピタリと止まった。震える拳は、俺の所までは届かない。
「殴らないのかよ。殴りたいなら、殴ればいいだろ」
「……今の俺に……殴る権利なんて、あるわけないだろ……」
 そのままハチは、ガクッ、と両膝を地面に着けて、項垂れた。――何となく、俺はその姿を見て、ため息をついた。このままハチに殴られて、全てが終わりになることが避けられたのが良かったのか、中途半端なハチが残念だったのか……自分でも、わからないが。
「我慢したお前に、教えてやるよ。――本当は、抱いてねえよ」
「え……!?」
「抱いてくれって言われたのは本当だ。抱かなかったら見捨てられたって壊れそうだったから、俺も覚悟を決めた。結果としてギリギリまではもつれ込んだけど――最後の一線は、越えなかった」
 そうなのだ。最後の最後、一線を越える前に、雫ちゃんは理性を振り絞ってくれた。俺の本能が理性を越える前に、終わりにすることが出来た。やっぱり雫ちゃんは泣いた。でも絶対に俺は見捨てないと約束した。
 結果として――今日の『計画』が生まれた。
「お前、雫ちゃんのこと、好きか?」
「もう……もう、俺なんかが、何を言っても」
「雫ちゃんが受け入れてくれるくれないとか今までに何があったとかお前が何したとかそんなこと聞いてるんじゃねえ。お前が、雫ちゃんが好きかどうか、大切かどうか、それを聞いてるんだよ」
「……好きだ……大好きだ……大好きだ……!!」
「死ぬ気で追いかける覚悟はあるか?」
「雄真……? それって」
「あるかないか聞いてるんだ、あるかないかで答えろ!」
「……ある……!! ある!!」
「――わかった」
 そのまま俺は、ポケットから一枚のメモを、ハチに手渡す。
「……これは?」
「この場所で雫ちゃんが待ってる。ただし、二時間だけ、しかも移動方法はお前の足だけ、だ」
「え……?」
「雫ちゃんが最後にハチの意気込みが見たいって言うから、二人で計画した。この場所に二時間で行けば、雫ちゃんはお前の気持ちに応えてくれるかもしれない」
 それは、俺が最後に提案した、俺が抱く以外の雫ちゃんのけじめだった。無理難題を押しつけて、ハチはどうするのか。無理だとわかっていてもやるのか。
 雫ちゃんは、この企画でハチを許すつもりはなかった。走って二時間など、到底無理だからだ。最後に自分が信じたハチの姿を見ておきたいと、綺麗に終わりにしたいと、そう願った結果だった。
「こ……こんなの、無理に決まってるじゃないかよ!? 自転車で行ったってギリギリだぞ!? 走ってなんて、到底無理だ……」
「なら諦めるか?」
「雄真……」
「諦めるなら諦めるでいい。――ただし、お前の罪は俺が代表して、裁く」
「俺の……罪……?」
「お前、今までにどれだけの人に迷惑をかけて、どれだけの人を巻き込んで、どれだけの人に雫ちゃんとのことを想われてきたと思ってるんだよ。それを全部無駄にするって言うんだろ? すいません、じゃ済まされないだろ。だから、それ相応の報いを受けて貰う。――俺がお前の親友だからじゃない。俺は、一人の人として、魔法使いとして、お前を裁く」
「…………」
 ハチ、項垂れたままワナワナと震えだした。俯いているから俺からは表情は確認出来ない。
「どうするんだ? そうしてる間にも、時間は刻一刻と過ぎてくぜ?」
 俺が呷るように続けると、
「畜生……畜生……畜生っ……」
 小声でそう呟き――
「畜生おおおおぉぉぉぉぉ!!」
 ――ハチは、走り出した。不可能なミッションに立ち向かう為に。……大好きだと、気付いた女の子の為に。
「……ったく」
 俺はその背中を、そのまま一旦見送る形になる。
「結局、隅から隅まで手を出すんじゃないか」
「クライス。――仕方ないだろ、俺だけが絡んでるならともかく、雫ちゃんのこともあったんだし」
「ハハハ、そうだな。――若さ故、だな。見ていて悪い気はしない。間に合わないとわかっていても、走る、か」
「さて、俺も最後の準備に入るとするか」
 俺はそのまま携帯電話を取り出し、とある番号にコールする。そして――


「はっ、はっ、はっ……」
 ハチは走っていた。僅かな望みに全てをかけて。
 間に合う距離ではないのは一目瞭然だった。ばれないようにすれば交通機関を使うことも可能そうには見えた。――だが、ハチは走っていた。まるで弱気な自分を振り払うが如く、ハチは走り続けた。
「頼む……待っていてくれ、待っていてくれ、雫ちゃん……!」
 気付けばそんな言葉が口から漏れていた。――自分の気持ちに応えてくれなくてもいい。だがせめて目の前で謝りたい。今、直ぐに会いたい。……色々な感情が、心を過ぎって行く。
 でも、結局想うのは一人の少女のこと。――否応なしに、気持ちが高ぶっていく。気力と共に速度を上げた――
「はいストップ」
「っぎゃあああああ!?」
 ゴロゴロゴロゴロ。――気力と共に速度を上げた瞬間、ハチは転んで転がっていた。見れば足下には薄っすらと魔法陣が。どうやらこれで転ぶように仕向けられたらしい。……更に急いで起き上がって見てみれば。
「って、梨巳さんに琴理ちゃん!?」
 梨巳可菜美、葉汐琴理の二名が、毅然とした態度でハチの進路を塞いでいた。
「た、頼む、俺急いでるんだ! 何か俺に用事があるなら今度――」
「私達は、月邑さんに頼まれてこの道を塞いでるのよ」
「え――」
「本当のことだ。私達を乗り越えて先に進め。そうでないと月邑に会う資格なんてない」
 二人が嘘を言っているようには見えなかった。冷静に、厳しい目で二人共ハチを見ていた。
「で、でも乗り越えてって言ったって……二人とも魔法使いだし、どうやって」
「流石に戦闘で乗り越えろ、とは言わないわよ。――私達の先に行く条件は、『ここを通るに当たって、私達が納得のいくような言葉を私達に言うこと』」
「え……!?」
「つまり、私達がここを通してやりたくなるような言葉、通りたい理由を宣言しろ、ということだ」
 通してやりたくなるような言葉。通りたい理由。
「雫ちゃんに会いたいです!」
「却下。そんな一言で通す位だったらここで待ち構えてないわよ」
 最もであった。――ハチ、精一杯、頭脳をフル回転させる。
「雫ちゃんに謝りたい!」
「却下。謝って済む位だったらこんな大事に月邑もしてない」
「間に合わなくてもいい! でも精一杯走るから、通してくれ!」
「却下。間に合わなくてもいいなら通る必要はないじゃない」
「死んでも間に合わせる!」
「却下。さっきのを真逆にしただけだ」
「どんな罰でも罪でも受けるから、今だけは通してくれ!」
「却下。それなら今ここが通れないのが罪と罰」
「俺に……俺に、最後のチャンスを下さい! 絶対に、物にしてみせます!」
「却下。ここが通れない奴にチャンスを物に出来るわけがないな」
「梨巳さん、今まで迷惑ばかりかけてごめん!」
「却下。根本的な目的がずれてる」
「琴理ちゃん! 今想えば、琴理ちゃんが俺を助けに来てくれた時だって――」
「却下。全然関係ない話になってる」
「つまり俺は、雫ちゃんが――」
「却下」
「その――」
「却下」
「えっと」
「却下」「却下」
「うおおおおおおどうしろってんだあああああ!!」
 頭を抱えてオーバー気味に凹むハチ。――可菜美と琴理は、冷たい表情のままそのハチを見たまま。
「諦めたら? あなたのその脳みそじゃ、一生通れないわよ」
「どちらにしろ間に合わないんだ。どちらにしろ許して貰えないんだ。ここで諦めたって、同じだろう」
 あっさりとそう告げる二人。――どちらにしろ、間に合わない? ここで諦めたって、同じ?
「……同じなわけ……ない……」
 気付けばハチは頭を抱えて凹んだ状態から、ゆっくりと立ち上がり始めていた。その目で、可菜美と琴理を見据える。
「ここで諦めたら……今までの、俺と、同じなんだ……それじゃ、駄目なんだあああ!!」
 そして、大声で高らかにそう宣言した。
「大声出したって同じ、通れないわよ」
「構うもんか、もう二人の許可なんていらない!! 無理矢理にでも通ってやる!!」
「強引に通ろうとするなら、私達二人掛かりで貴様に全力で攻撃することになるぞ」
「やればいい!! 攻撃でもなんでも、好きなだけやればいい!! それでも俺は、通ってみせる!! 二人の攻撃の痛みなんて、雫ちゃんに会う為なら、耐えて乗り切ってみせる!! 行くぞおおおお!!」
 ハチ、身構えてダッシュの準備。――覚悟は実際に出来ていた。攻撃を喰らって、吹き飛ばされて、ボロボロになる覚悟が、出来ていた。
「…………」
「…………」
 そのハチを見て、可菜美と琴理は二人で目を合わせ、意思を確認。そして――
「……え?」
 数歩移動して――ハチが通る道を、空けた。
「あの、二人とも……?」
「見てわからない? 通っていいわよ」
「通っていい? あれ? その、でも、え?」
「私達が、貴様を通してやる気になった。それだけだ。――さっさと行け」
 実を言えば、二人がハチを通す条件は、二人が納得するような言葉ではなく――二人の条件を無視して、傷つくのを覚悟で突破する、という意思が確認出来たら、というものだった。その為、その意思を確認した二人は、道を空けたのだった。
「あ……ありがとう、梨巳さん、琴理ちゃん! 俺、精一杯走るから!!」
 ハチは二人に精一杯の声でお礼を言うと、走り去って行った。
「……はぁ。馬鹿みたい、折角の休みを高溝の為に使うなんて」
「まあな。――今日雄真と一緒に行動する、と約束を取り付けたのが運の尽きだったのかもしれないな」
「ここまでやらせるんだから、雄真には当然埋め合わせをして貰わないとね」
「今度こそ日曜日に三人で、か。我が侭放題言って困らせるか」
「三人で写真撮りましょう。匿名で神坂さんに郵送」
「ふふっ、相変わらず厳しいな」
 そんな風に雄真を弄る話をしながら、二人もその場を後にするのだった。


「はっ、はっ、はっ……」
 ハチは走っていた。疲労が当然の如く溜まり始めていた。それでも彼は足を止めない。人の間をすり抜け、角を曲がり、走り続けた。
 人通りの比較的多い道を越え、静かな住宅街に入った。――そこに「次の人」はいた。
「止まられよ、高溝殿」
「……信哉……!?」
 道の真ん中で、信哉が毅然とした態度で立ちはだかっていた。
「し、信哉、俺、急いでるんだ、そこを……って、まさか」
「月邑殿からの頼みだ。高溝殿を、この先に通すわけにはいかぬ。どうしても通りたければ、この俺を倒して進むがいい」
 そう言うと信哉は背中に背負っていたのであろう、竹刀を一本、ハチに放り投げた。直後、自らも竹刀を握り、身構える。
「時間は無制限。高溝殿が俺から一本奪えたら、この場の道は空けよう。審判は沙耶が公平な目で行う。――沙耶」
「はい」
 何処からともなく沙耶が現れ、信哉とハチ、二人の戦いの審判員として立つ。
「む、無茶言うなぁ! 俺が信哉に剣道で勝つなんて」
「時間無制限、一本まぐれでもいい、取れば高溝殿の勝ちだ」
「にしたって――」
「無理だと思うなら諦めればいい。――最も、俺の友に挑むことすらせず諦めるような腑抜けはいないが」
「っ……」
「月邑殿に会いたいというのは、嘘偽りか?」
 ビリッ、という一瞬電気が走ったような鋭い威圧が、ハチを襲う。――信哉の目は、何処までも鋭く、ハチを捉えていた。
「竹刀を持て、高溝殿。――戦わずして得られる物など、何もない!!」
「くそ……くそっ……くそおおおおおお!!」
 ハチ、竹刀を拾い、そのまま突貫。
「甘いィィィィ!!」
「ぎゃあっ!?」
 ハチの攻撃はあっさりと流され、信哉に腹を薙ぎ払われる。――防具も着用していないので、痛みがダイレクトに体に走った。その痛みに負け倒れ、その場で蹲ってしまう。
「一撃の痛みのみで諦めるような想いしかないなら、この場で諦めるがいい!!」
「っ……まだまだああああ!!」
 だがハチは立った。再び竹刀を握り、信哉に突貫。
「ぎゃあっ!!」
 流され、信哉のカウンターでダウン。
「おりゃあああああ!!」
 痛みをこらえ、立ち上がるハチ、突貫。
「ぎゃうっ!!」
 やはり流され、信哉のカウンターでダウン。
「……っ……」
 勝ち目はない。――それは、審判として試合を見守る沙耶の、正直な意見だった。信哉の実力を誰よりも知っている沙耶からしても、ハチのド素人の剣術では奇跡が三回程起きなければ信哉にその竹刀が届かないであろうということが察せられた。
「高溝さん、このままでは勝てません。兄様の動きを――」
「口を挟むな沙耶ァ!!」
 耐え切れなくなった沙耶がハチにアドバイスを送ろうとしたが――瞬時に、信哉に止められた。
「これは俺と高溝殿の戦いだ! 口出しは許さん!」
「っ……はい」
 沙耶としても下がる他なかった。――だがその時、ハチの目を見て気付く。
「……!」
 ハチの目が、変わり始めていた。竹刀を握り、信哉を見据えるその目は、一対一の戦いを望む信哉と同じ目の色をしていた。
(兄様……高溝さん……)
 武術の嗜みがある沙耶だからこそ、わかった。――二人の戦いに、口を挟んではいけない。そういう戦いなのだと、認識せざるを得なかった。
 そして再び、二人のぶつかり合いが始まる。
「そのような剣裁きで俺に届くとでも思ったかァァァ!!」
「ぎゃえっ!?」
 ダメージを負っても負っても、信哉に突貫するハチ。それを容赦なく薙ぎ払う信哉。――その時間がどれだけ続いただろうか。見るも無残な姿になりつつあるハチが、信哉にやはり突貫を開始。
 そして――奇跡が、起きた。
「!?」
 突貫を流してカウンターに入っていた信哉の竹刀を、ハチがかわした。体力の無さから体かふらついて避けれたのか、信哉の動きを掴めたのか、無意識の内か、理由はわからない。
 だが、ハチが信哉の攻撃を、初めてかわした。わずかながらの隙が、信哉に生まれる。
「うおおおおうおうおおおおおお!!」
 ハチは全力で竹刀を振り抜いた。パァン、という渇いた音が響く。
「一本!」
 沙耶が片手を挙げて、一本入ったと声を出す。――ハチの竹刀は、見事に信哉の左手を捉えたのだ。
「……見事だ、高溝殿」
 数秒の沈黙の後、信哉は構えを解いてハチに告げる。
「行くがいい。その気迫で、見事月邑殿の所へ辿り着いてみせよ」
「……っ……はあっ……はあっ……おうっ……!!」
 ハチは竹刀をその場に置いて、走り出した。信哉と沙耶が、その背中を見送る形になる。
「まさか、高溝殿に一本取られるとはな。俺の油断か」
「兄様、それは違います。月邑さんに会いたいという想いが、高溝さんに一度だけ、兄様を越える力を授けて下さったのでしょう。――高溝さんの剣筋では、兄様は油断をしていても勝てますから」
「そうか。そうだな。――よし、帰って俺ももう一度剣術を見直すか。沙耶もどうだ、一緒に」
 相変わらずの提案。沙耶は軽くため息。いつもならば何の迷いもなく断る提案である。――でも。
「兄様。――今日だけ、ですよ」
 気付けば、沙耶の口は、そう動いていたのだった。


「はっ……はっ……ごほっ、げほっ……」
 ハチの披露はピークに達しようとしていた。走り続けるだけでも体力を消耗するのに加え、気候的な要素、更には先ほどの信哉との戦い。気力があっても、徐々に足が言うことを効かなくなってくる。
 だが、それでもハチは足を止めない。どれだけ速度が落ちてしまっても、足だけは止めない。――フラフラになりつつも進んでいた、その時だった。
「ここまでは、辿り着けたのね」
「聖……さん……!?」
 ハチの視界に入ったのは、沙玖那聖だった。やはり冷静な目で、ハチを見ていた。
「今までの流れから、何となくわかってもらえるかしら? ここをタダで通すわけにはいかないわ」
「何をしたら、通して貰えるんですか……!! 何でもやります……!!」
 息は荒かったが、ハチははっきりと大きな声でそう返した。
「あなたの今の体力じゃ、ろくなことは出来ないわ。だから、私の突破条件は難易度が低めの物にしておいた。――簡単よ。私の横を通るだけ」
「……え?」
「私は攻撃もしない、移動もしない。その横をあなたが通るだけ。――さ、始めましょう」
 状況が飲み込めない。その横を通るだけ? 何か裏があるのか、とハチは思ったが、聖がそういう手を使ってくるとは思えない。
「じゃ、じゃあ、行きます!」
 兎に角、行くしかない。――そう思い、足を一歩前に出したその時だった。
「!?」
 ズドォン!!――言葉では表し切れない程の重いプレッシャーがハチを襲った。体が重くなる。足が思うように動かない。
「聖……さん……?」
「私はここからは動かない、攻撃もしない。――ただ、あなたに対して抱いている感情を表に出しているだけ」
 威圧感。――聖が用意した試練は、それだった。
 威圧はそもそもの性格で多少威力は左右されるが、その人の実力、そして経験が成せる技である。その存在感を醸し出すことにより、未熟な相手の動きを精神的な部分から制限する。逆に言えば相手もそれ相応の実力や経験があれば意味がない。存在感はアピール出来ても、行動までは制限出来なくなる。
 だが、ハチの今までの人生の経験、人としての実力など、聖に比べたら足下にも及ばない。――行動を制限されて、当たり前の存在だった。
「ぐ……ぐおお……くっ……」
 ハチは負けてなるものか、と必死に足を前に出す。だが聖に近づけば近づく程当然威圧感は強くなり――体は重くなる一方。
「――高溝くんと雫のことは、第三者である私が口を挟むことじゃないわ。厳しい言い方をすれば、高溝くんを信じてしまった雫に落ち度がある。そういう経験をして、人は大人になっていくもの。だから、私は雫は慰めてあげたけど、あの子の前で高溝くんが悪いとか、そういうことは言わなかった。――でも」
 ドォン!!――聖の威圧が、また一段階鋭くなる。
「それでも、私はあの子のこと、とても大切に想ってる。あの子が私のことをどう見ていてくれるかまではわからないけど、私はあの子の姉代わりだと思ってる。――あの子を傷つけて泣かせたあなたを、個人的に今のまま許したくはない」
「……っ……!!」
 必死の思いで、ハチは足を前に出す。――その度に、聖に近づく度に、威圧が重くなっていく。
「乗り越えられないのなら――雫のことは、諦めて。それがあの子の為であり……あなたの為でもあるわ」
「ぐ……くそっ……ぐおおっ……!!」
 ガクッ、とついにハチは両膝をついてしまう。その重みに負け、もう立ち上がることも出来ない。
「まだだ……絶対、絶対に……通る……!!」
 それでも、両手をついて、這いつくばるようにハチは進んだ。心が苦しくなり、気を失いかけても進んでいた。――聖まで、後歩いて五歩といった所まで進む。
「――どうしても、通りたいのかしら?」
「どうしても……通りたい、です……!」
「それは――何故?」
 聖まで、後三歩。
「雫ちゃんに……会いたい……から……!! 会って……謝り、たいんです……!!」
「雫が会いたくない、と思っていても? ここであなたが潰れてしまうのが目的だったとしても?」
「それでも……それでも……俺は……!!」
 聖まで――後一歩。ボロボロになって、ペースもガタ落ちしても、ハチが止まることはなかった。……その姿を見た聖が、大きく息を吹く。
「高溝くん。――あなたの心意気は、わかったわ」
「聖……さん……?」
「だから――ごめんなさい」
 ズドォォォン!!――今まで以上の圧倒的威圧感が、一気にハチを襲った。
「が……あ……っ……」
 体が動かなくなった。世界がぐるぐる回っていた。
「これが――雫の、願いだったから」
 そしてそれが、ハチが意識を失う前に聞いた、最後の聖の言葉だった。


 ブロロロロロ……キィッ。
「う……ん……」
 何か、エンジン音が近づいて来て目前で止まる音がした。――少しずつ、意識が戻ってくる。
「……ハチ、起きろ」
 耳に馴染んだ声だった。
「ゆ……うま……?」
 目を開けば、そこには雄真の姿が。
「え……? どうして……? 俺、寝てたのか……?」
 どんどんハッキリしていく意識。寝ていて目が覚めた。――寝てた?
「っ!?」
 そして――完全に意識が戻った時、ハチは現状を思い出した。要は、聖の威圧感に負け、ここで意識を失っていたのである。
「雄真っ、時間は、時間はまだ――」
「…………」
 ハチがすがるように雄真に尋ねると、雄真はポケットから携帯電話を取り出し、待ち受け画面に表示されている時計を見せた。
「お前の出発から、もう二時間四十五分が過ぎてる。しかもここはまだゴールじゃない」
 約束の制限時間は二時間。今はもう二時間四十五分。そしてゴールにすら到着していない。
「…………」
 ハチは無言のまま再び膝を地面についた。――間に合わなかった。現実が、彼の心を支配していく。
「……ほら」
 雄真はそんな絶望の淵にいるハチの目前に、一通の便箋を置く。
「お前が間に合わなかった時、渡してくれって雫ちゃんから頼まれてた。――それじゃ、俺は先に帰るからな」
 雄真はそのまま歩いて停車していたバイクの所へ。
「すみません香澄さん、わざわざバイク出して貰って」
「構わないよ。面白い話聞けたし面白い物見れたからねえ」
 要は、最初からハチの動きを雄真は香澄のバイクで追いかけていたのである。――最も、今のハチにしてみればどうでもいい事実なのだが。
 ブロロロロロ、とエンジン音が遠ざかっていく。雄真を後ろに乗せた香澄のバイクが去って行った。
「…………」
 ハチはゆっくりと、手元に残った手紙を広げた。

『高溝先輩へ

 昨年の十二月に仲良くなれてから、色々ありましたね。
 わずか半年、しかも直接会えていたのはほんのわずかなことでしたが、とても楽しかったです。
 先輩は私に、沢山の素敵な出会いと、沢山の勇気をくれました。
 今の私がいるのは、高溝先輩のおかげです。

 そんな先輩を、私はずっと想っていました。
 そんな先輩を、私は好きになりました。
 そんな先輩を好きになった私は、弱い女の子でした。
 何も話してくれなかった先輩に、私はもう耐えられそうにありません。
 だから、今日でお別れです。
 これから学園で出会っても、街で見かけても、もう私は先輩とはお話出来ません。
 とても辛いですけど、これが私の最大限の勇気です。
 こうするのがきっと一番いいんだって思います。

 私、もっと強くなります。先輩にあの日貰った勇気を胸に、もっと強くなります。
 傍に先輩がいなくても、きっと強くなってみせます。
 だから先輩も、私なんかよりももっと素敵な人を、見つけて下さい。
 私のことは、忘れて下さい。

 今まで、本当にありがとうございました。
 高溝先輩に出会うことが出来て、本当に良かったって思ってます。
 大好きでした。とてもとても、大好きでした。

 さようなら。 月邑雫』

「……雫ちゃん……」
 ありのままの想いが、雫の想いが、その手紙には込められていた。――ポタッ。
「……っ……」
 手紙が、水で濡れていた。――水?
「あ……あ……」
 それは、ただの水ではなく、雨でもなく、
「う……わ……ああ……」
 ハチの目から零れる、純粋な涙だった。
「うわあああああああああああ!!」
 そしてそれに気付いてしまえば、その涙は溢れる一方で、道の真ん中で、ハチは泣き叫んだ。


 ――人は、どれだけの数、出会いと別れを繰り返すのだろう。


 どれだけの悲しい別れを乗り越えて生きていかなければならないのだろう。


 どれだけの後悔を胸に、生きていかなければならないのだろう。


 枯れることを知らないかの様なその涙は、


 一つの恋の終わりと、一つの別れの合図なのか。


 涙が途切れたその時きっと、少年は一歩、大人になるのだろう。


 ほんのわずかな思い出の欠片と、抱えきれない後悔を胸に、


 きっと少年は一歩、大人になるのだろう。


 だから、今だけは。


 今だけは、その涙、途切れるまで、いつまでも――


<最終回予告>

「……ハチは?」
「あたしとの合流地点にはいなかったわ。だから先に来たんだけど。……今日は、来ないかもね」
「…………」

物語は幕を閉じる。
長く短く、切なく、そして輝いていた小日向雄真魔術師団の物語。

「深羽さん、お家継がれるんですね」
「? そうだけど……どしたのよ藍沙っち。前からそんなのわかってたじゃん」
「いえ、以前は多分継ぐんじゃないかな、とか継がなきゃ駄目なんだと思う、とか何処か曖昧な部分を
残した言い方が多かったです。でも今の深羽さん、何処かハッキリと継ぐ、と決めている感じでした」

芽生えた決意は、大きく強く。
新たなる道を、目の前に築いてくれる。

「まあでも、厳しく注意することも大事だけど、同じ位笑うことも大事よ。
怒ってばかりじゃ表情に変に染み着くし、楽しい時にも笑えなくなるしね」
「成梓先生」
「勿論私は梨巳さんが怒ってばかりの子だなんて思ってないわ。仲間達といる時のあなたの笑顔は
本当に輝いてるしね。信じた人を想う強さを知ってる、素敵な女の子」

目覚めし想いは、優しく広く。
昨日とは違う色を、その心に増やす。

「? どうかしたんですか?」
「いや……シフォンケーキ焼いたんですけど持っていっていいですか、というメールが」
「屑葉ちゃんですか?」
「あー、うん。――なんつーか、頻繁に来たがるのはどうかと思うわけよ俺は。
いや嫌いって言ってるわけじゃないんだけどさ、でも若い娘さんが
何処の馬の骨かもわからない男の所にさ」

守った物は、柔らかく花開き。
大切な誇りを、その胸に刻み込む。

「俺は、この一ヶ月のこと、一生忘れない」
「……恰来」
「沢山の出会いと、言葉と、想い。全てが輝いていた。俺の知らない光を放ってた。
俺を、変えてくれた。……一生忘れない」

掴んだその手は、何よりも温かく。
愛することの意味を、言葉なくとも伝えてくれる。

次回、「ハチと小日向雄真魔術師団」
LAST SCENE 「ハチと小日向雄真魔術師団」

「会いたいよ、雫ちゃん。――君に、会いたい」


お楽しみに。



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